「これって、自律神経が乱れているんでしょうか?」
と相談されることがあります。
たしかに、眠れない、呼吸が浅い、肩がこる、頭が重い、胃腸の調子が悪い。
そういう身体の反応が出ているなら、自律神経の働きが乱れている面はあるのかもしれません。
ただ、話を聞いていると、ふと思うことがあります。
それは、原因が自律神経そのものというよりも、
人間関係の距離感で疲れているのでは?
ということです。
全員と仲良くしなければいけない。
嫌われてはいけない。
友達が少ない自分はダメなのではないか。
うまく人に合わせられない自分は、社会性がないのではないか。
そんなふうに、人間関係に力が入りすぎている。
そこで、なぜか頭に浮かんだのが、あの歌です。
「友達百人できるかな?」
子どもの頃は、明るい入学ソングとして聞いていました。
でも、大人になってから考えると、これ、なかなか深い。
いや、少し怖いくらい深い。
今回はこの「友達百人できるかな?」を、少しだけ変な角度から読み解いてみます。
題して、
「友達百人できるかな?」を、ジブリ映画的階層構造で読み解いてみた
です。
ジブリ映画的階層構造とは?
いきなり変な言葉を出しました。
ここで言う「ジブリ映画的階層構造」とは、私の勝手な言い方です。
ジブリ映画は、表面だけ見ると、子どもも楽しめる冒険活劇やファンタジーです。
でも、大人になってから見返すと、その奥に、自然、労働、戦争、共同体、孤独、親子関係、生と死のような、かなり深いテーマが隠れていることに気づきます。
子どもは表面の物語を楽しめる。
大人はその下にある構造や哲学に気づいてしまう。
私は宮崎駿作品の、そういうところがとても好きです。
なので今回は、宮崎駿ファンとして、その構造を少しまねてみようと思います。
表面は子ども向けの童謡。
でも、その奥に大人の人間関係論が隠れている。
そんなノリで、「友達百人できるかな?」を読んでみます。
表層:「友達がたくさんできるといいね」という歌
まず、普通に読むと、とても明るい歌です。
小学校に入学する。
新しい教室。
新しい先生。
新しい同級生。
そこで友達がたくさんできるといいね。
そういう、子どもの新生活への期待を歌っているように聞こえます。
これはこれで、とても自然な読み方です。
小学校に入る子どもに向かって、
「友達が百人できるといいね」
と言う。
微笑ましいです。
ただ、大人になってから冷静に考えると、少しだけ違和感が出てきます。
百人?
百人と友達?
いや、それは多すぎないか?
大人でも無理です。
百人と濃く付き合おうとしたら、普通に疲れます。
LINEの返信だけで一日が終わります。
誕生日プレゼントを考えているうちに一年が終わります。
つまり、「友達百人」を文字通りに受け取ると、かなりしんどい。
ここから、少し深読みが始まります。
中層:「新しい共同体に入る不安」の歌
小学校に入るということは、子どもにとって初めての大きな社会参加です。
それまでの生活の中心は、家族です。
でも学校に入ると、家族以外の人たちと毎日過ごすことになります。
同級生。
先生。
上級生。
近所の子。
知らないルール。
知らない空気。
これは、子どもにとってかなり大きな環境変化です。
そう考えると、
「友達百人できるかな?」
という言葉は、単に友達を増やしたいという話ではなく、
自分はこの新しい場所で、うまくやっていけるだろうか?
という不安の表現にも見えてきます。
家族の外に出る。
社会に入る。
そこで、自分の居場所はあるのか。
そういう意味では、この歌は「友達の歌」というより、
共同体に入っていく歌
なのかもしれません。
深層:「親友を百人作れ」という意味ではない
ここから、さらに一段深く読んでみます。
私は、「友達百人できるかな?」という言葉は、
親友を百人作りなさい
という意味ではないと思います。
百人全員と深く分かり合う必要はありません。
百人全員と本音で語り合う必要もありません。
百人全員と休日に遊ぶ必要もありません。
それは無理です。
では、「友達百人」とは何なのか。
私は、こう考えます。
自分の近くにいる人たちと、敵対せずに過ごせること。
これが「友達百人」の本当の意味ではないかと思うのです。
ここで言う友達は、親友ではありません。
同じ教室にいる人。
同じ職場にいる人。
近所にいる人。
たまたま同じ場にいる人。
深くは知らないけれど、敵ではない人。
そういう人たちと、無理なく同じ空間にいられること。
これが、実はかなり大切です。
「好かれる」と「敵を作らない」は違う
ここで大事なのは、これは
みんなから好かれましょう
という話ではない、ということです。
この違いは、かなり大きいです。
「好かれるかどうか」は、最終的には相手側の評価です。
こちらがどれだけ気を使っても、どれだけ頑張っても、相手がどう感じるかまでは完全にはコントロールできません。
もちろん、感じよく振る舞うことはできます。
礼儀正しくすることもできます。
相手を大切にすることもできます。
でも、それでも好かれるかどうかは、最後は相手次第です。
つまり、
他人から好かれることは、自分ではどうしようもない部分がある。
ここを人生の目標にしてしまうと、かなりしんどい。
なぜなら、常に他人の評価を気にしなければいけなくなるからです。
「今の言い方、大丈夫だったかな」
「嫌われてないかな」
「変な人だと思われてないかな」
「もっと合わせた方がいいのかな」
こうなると、もう人間関係というより、評価待ちの面接です。
毎日が就職活動です。
それは疲れます。
一方で、敵を作らないようにすることは、自分側の努力でかなりできます。
踏み込みすぎない。
余計に張り合わない。
必要以上に相手を否定しない。
合わないからといって、すぐ敵にしない。
相手の世界に土足で入り込まない。
自分の正しさで相手を潰そうとしない。
これは、相手から好かれることよりも、ずっと現実的です。
百人から好かれるのは難しい。
でも、百人の中で不要な敵対関係を作らないようにすることは、まだ努力のしようがあります。
つまり、「友達百人できるかな?」は、
百人から好かれる人になれるかな?
ではなく、
百人の中で、無駄に敵を作らずに過ごせるかな?
という問いとして読めるのです。
この読み方にすると、急にハードルが下がります。
そして、かなり大人の社交術になります。
浅い関係こそ、実は難しい
人間関係というと、つい「深い関係」が大事だと思いがちです。
もちろん、深い関係は大切です。
でも、深い関係は、ある意味ではわかりやすい。
共通の趣味がある。
共通の目的がある。
同じ経験をしている。
価値観が似ている。
長く付き合っている。
そういう共通点があれば、人は比較的深くつながりやすい。
でも、浅い関係は違います。
たいして共通点はない。
そこまで深く知っているわけでもない。
でも、近くにいる。
毎日顔を合わせる。
同じ空間にいる。
この関係を、敵対させずに保つ。
これは、実はとても高度なコミュニケーション能力です。
相手に踏み込みすぎない。
でも、無視もしない。
必要以上に仲良くしようとしない。
でも、冷たくもしない。
合わないところがあっても、すぐ敵にしない。
必要な距離を保ちながら、穏やかに共存する。
これができると、日常はかなり平和になります。
令和の「奇妙な仲の良さ」
ここで、現代の人間関係を考えてみます。
最近は、浅い関係なのに、いきなり深い関係のように振る舞うことが増えているように感じます。
すぐ下の名前で呼ぶ。
すぐタメ口になる。
すぐ仲良しグループ感を出す。
すぐ「わかるー」と共感する。
すぐ親友っぽくなる。
一見、とても仲が良さそうです。
でも、その関係にはまだ十分な土台がないこともあります。
だから、少しズレると急に距離ができる。
少し意見が違うと気まずくなる。
少し期待に応えられないと、裏切られたように感じる。
これは、浅い関係に深い関係の役割を求めすぎているのかもしれません。
本来、浅い関係は浅いままでよいのです。
深く分かり合わなくてもいい。
すべてを共有しなくてもいい。
いつも一緒にいなくてもいい。
ただ、敵対しない。
普通に挨拶できる。
同じ空間にいても疲れすぎない。
必要なときに軽く声をかけられる。
それで十分な関係もたくさんあります。
親友は一人いれば十分
ここで、私はこう補足したくなります。
友達百人できるかな?
でも、親友は一人いれば十分。
これは矛盾しません。
「友達百人」は、生活圏の人たちと敵対せずに過ごせること。
「親友一人」は、心の奥を話せる相手がいること。
役割が違います。
百人全員に理解される必要はありません。
百人全員に好かれる必要もありません。
百人全員と深く結びつく必要もありません。
多くの人とは、浅く穏やかに。
本当に深く話せる人は、一人いれば十分。
そう考えると、人間関係はかなり楽になります。
友達が少ないことは、人間関係に失敗していることではありません。
むしろ、全員と深く仲良くしようとする方が、かなり無理があります。
「友達が少ない」は、本当に問題なのか?
友達が少ないことを、コンプレックスに感じている方は少なくないと思います。
特に、学校や職場のような場所では、
「誰と仲がいいか」
「どのグループにいるか」
「休日に誰と会っているか」
のようなことが、無意識に評価されることがあります。
でも、本当に大切なのは、友達の数なのでしょうか。
私は、そうではないと思います。
大切なのは、
近くにいる人と仲良くなることではなく、ただ敵対せずに過ごせること。
そして、深く話せる人が一人でもいれば、十二分に幸せであること。
この二つがあれば、人間関係としてはかなり十分なのではないでしょうか。
もちろん、誰かと深くつながれたら、それは素晴らしいことです。
でも、それを百人に求める必要はありません。
百人と親友になる必要はない。
百人から好かれる必要もない。
百人と敵にならなければいい。
そう考えると、「友達百人できるかな?」という言葉は、急にやさしく聞こえてきます。
人間関係にも「力み」がある
身体には、力みがあります。
肩に力が入る。
呼吸が浅くなる。
あごを噛みしめる。
背中が固まる。
足が踏ん張りすぎる。
同じように、人間関係にも力みがあります。
嫌われないようにしなければ。
ちゃんと反応しなければ。
空気を読まなければ。
仲良くしなければ。
一人だと思われてはいけない。
こういう力みが続くと、身体にも反応が出ます。
眠れない。
肩がこる。
頭が重い。
胃腸が疲れる。
呼吸が浅くなる。
胸がざわざわする。
それを「自律神経の乱れ」と呼ぶこともできるかもしれません。
ただ、その奥には、
人間関係をがんばりすぎている疲れ
がある場合もあります。
特に、
好かれようとする疲れ
はかなり大きいと思います。
好かれるためには、相手の評価を気にし続けなければいけません。
でも、敵を作らないためなら、自分の距離感を整えればいい。
この差は、かなり大きいです。
他人の評価を変えようとすると疲れます。
でも、自分の振る舞い方を少し整えることなら、まだできます。
人間関係で疲れているとき、必要なのは、もっと好かれる努力ではなく、
敵対しない距離感に戻ること
なのかもしれません。
「友達百人できるかな?」を、もう一度読み直す
子どもの頃に聞いたとき、
「友達百人できるかな?」は、ただ明るい歌でした。
でも、大人になってから読み直すと、少し違って聞こえます。
これは、百人と親密になれという歌ではない。
新しい共同体の中で、近くにいる人たちと敵対せずに過ごせるだろうか。
浅い関係を浅いまま、穏やかに保てるだろうか。
他人から好かれることばかりを気にせず、自分の側から無駄な敵対を作らずにいられるだろうか。
そして、心の奥を話せる人が一人いれば、それで十分なのではないか。
そんなふうに読めてきます。
まるで、子ども向けの明るい歌の奥に、大人の社交術が隠れているようです。
表面は童謡。
中には共同体への不安。
さらに奥には、非敵対の作法。
最深部には、人間関係の距離感。
なかなか、ジブリ映画的ではないでしょうか。
まとめ
「友達百人できるかな?」は、
親友を百人作れ
という意味ではないと思います。
百人に好かれる必要はない。
百人に理解される必要はない。
百人と深くつながる必要はない。
大切なのは、
近くにいる人たちと、敵対せずに穏やかに過ごせること。
そして、
本当に深く話せる親友は、一人いれば十分。
友達が少ないことは、人間関係に失敗していることではありません。
むしろ、人間関係の距離感を間違えず、浅い関係を浅いまま大切にできることは、とても成熟した社会性だと思います。
人間関係で疲れているとき、私たちはつい、もっと頑張って仲良くしようとしてしまいます。
でも、もしかすると必要なのは、もっと仲良くなることではなく、
ちょうどよい距離に戻ること
なのかもしれません。
他人から好かれることは、最終的には他人の評価です。
そこは、自分ではどうしようもない部分があります。
でも、敵を作らないように振る舞うことは、自分の努力でできます。
そして、それは「みんなから好かれること」よりも、ずっと実現可能です。
身体と同じように、人間関係にも力みがあります。
力を入れすぎず、抜きすぎず。
近くの人とは敵にならず。
深く話せる人は、一人いればいい。
そんなふうに考えると、
「友達百人できるかな?」という言葉は、実は私たちが人間関係を勘違いしていたことに気づかせてくれる歌なのかもしれません。
あとがき:『友だち幻想』という本のこと
この記事を書いたあとで、あらためて「友達百人できるかな?」について調べてみると、似たような問題意識を扱っている文章や本があることに気づきました。
その一つが、菅野仁さんの『友だち幻想』です。
この本では、「みんなと仲良くしなければならない」「友だちは多いほうがいい」という思い込みから少し離れて、人と人との距離感を見直すことの大切さが語られています。
この考え方は、今回の私の読み方ともかなり近いと思います。
ただ、今回の記事で私が特に強調したかったのは、「好かれること」と「敵を作らないこと」は違うという点です。
人から好かれるかどうかは、最終的には相手側の評価です。
こちらがどれだけ気を使っても、どれだけ感じよく振る舞っても、相手がどう感じるかまでは完全にはコントロールできません。
でも、敵を作らないように距離感を整えることは、自分側の努力でできます。
踏み込みすぎない。
張り合いすぎない。
すぐに相手を否定しない。
合わないからといって、すぐ敵にしない。
これは、「みんなに好かれよう」とするよりも、ずっと現実的です。
そして、たぶん人間関係で疲れているときに必要なのは、もっと好かれる努力ではなく、敵対しない距離感に戻ることなのだと思います。
『友だち幻想』が、人との距離感を見直す本だとするなら、この記事は、童謡「友達百人できるかな?」を入口にして、その距離感をもう一度考えてみた文章です。
友達は百人いなくてもいい。
百人から好かれなくてもいい。
でも、近くにいる人たちと無駄に敵対せずに過ごせたら、それだけで日常はかなり穏やかになります。
そして、心の奥を話せる人が一人いれば、もう十分なのかもしれません。
そんなふうに考えると、「友達百人できるかな?」という歌は、ただの明るい入学ソングではなく、人間関係に疲れた大人にも、少しやさしく響く言葉になる気がします。
