言葉遊び

存在の等式とメンヘラ的嗜好性

承認欲求・依存・不安を「存在証明=等式」という視点で読み解くエッセイ

※これは施術とは直接関係ない、言葉遊び的な考察です。気軽にどうぞ

私たち人間は、誰もが承認欲求や依存の傾向を少なからず持っています。しかし「メンヘラ」と呼ばれる人々の特徴は、それが過剰であり、かつ常に深い不安と結びついている点にあります。承認されたい、そばにいてほしい、見捨てられたくない――それらはすべて、自分の「存在」が揺らいでいるからこそ強烈に求められるのです。

存在証明としての等式

存在をどう証明するか。最も単純な等式は
私 = 父母の子
です。誰にとっても否定しようのない関係が、ここに存在の根拠を与えています。だが、もしこの等式が記述できないとしたらどうでしょう。虐待や不和、あるいは愛されている実感の欠如によって、
私 = ?
という式のまま宙吊りになってしまうのです。

数学において「=」は関係を表し、仏教的に言えばそれは「縁」です。人間(ジンカン)とは「人と人との間」に生きる存在であり、縁がなければ「人間」として成立しません。キリスト教の系譜もまた、アダムとエヴァから連なる漸化式として、人の存在を証明しています。西洋も東洋も異なる形で、「存在は関係によってしか保証されない」と語っているのです。

メンヘラ的存在不安

メンヘラ的傾向をもつ人は、この等式の右辺が記述できません。「私=父母の子」という最小単位でさえ確信できず、恋人や友人との関係も
私 = あなた?
と不安定に揺らぎます。存在を確かめようとすればするほど空白が広がり、承認や依存にしがみつかざるを得ない。寂しさと不安はループし、未来永劫ひとりになる恐怖へと膨れ上がります。

4象限モデル(存在 × 価値)

「存在(あり/なし)」と「価値(あり/なし)」の二軸で、典型的な心性を整理します。

  価値あり 価値なし
存在あり A:健全型
自己完結的に安定。「私は存在しており、価値もある」。
B:ダメ男型
生存力は強いが価値が欠け、周囲を疲弊させやすい。
存在なし C:ホイホイ/尽くす型
価値はあるが存在が不安。他者に必要とされて存在を感じる。
D:メンヘラ型
存在も価値も自ら証明できず、承認依存に陥る。

相互補完と「不安定な連立方程式」

D(メンヘラ)× C(メンヘラホイホイ) は、互いの「存在=なし」を補完し合いますが、D側の「価値=なし」が常にループを不安定化させます。Cは一見Aに見えても、存在証明が外部依存のままで本質的にはCのままです。

B(ダメ男)× C(尽くす女) では、Cの価値がBに食いつぶされ、典型的な共依存に陥りやすい構図となります。

一方、A×A(健全同士) は自己完結的に安定解を持ち、長期的に最も持続しやすい関係です。

宗教の役割――揺るがない右辺としての「神」

もし
私 = 神の子
と定義できれば、存在の等式は揺るがなくなります。縁や親子関係が不安定でも、普遍的に存在が保証されるからです。創世記の系譜(漸化式)も、仏教の縁起(関係の網)も、そして「神の子」という表現も、いずれも人間に「存在の等式」を与える試みだと言えるでしょう。

結び

メンヘラの本質は、承認欲求や依存そのものではなく、存在の等式を記述できないことにあります。その空白を埋めようとして、人は恋人に、友人に、時に宗教に手を伸ばします。誰もが等式を求めて生きている――そのことを理解したとき、メンヘラ的嗜好性は単なる偏りではなく、人間存在の根源的な不安の現れとして見えてくるはずです(笑)。